イシダライガのねっとり現代文

入試現代文を、ブログだからできる文量でねっとりと解説します。

明治大 2020 国語『中動態の世界』解説・中

 引き続き、明治大の現代文(経済政治学部 2020年2/11)大問一を読み解いていきます。

 長くなりますが、とにかく丁寧に解説します。その分設問の理解が簡単になりますので、焦らずやっていきましょう。

 

 なお、必ず前回の記事から読んでください。たとえ五段落目までは理解できてた、という人でも。

 前回は こちら

 

 

 

  • 第六〜第九段落(a、〜ある。)

 四・五段落では権力関係に対して新たな視点を投げていました。

 一方で六〜九段落では、ふたたび暴力関係の話に戻っています。

 三段落で、暴力は能動受動の対立の中にあると言い切っていることを踏まえて読んでみましょう。

 

 まず着目したいのはやはり便所掃除の例ですね。

 いまの日本で汚いトイレというのは減っていると思いますが、それでも進んでやりたいという人はまずいないでしょう。

 

 嫌なことは他人に押し付けたい。

 世の中にはそういう汚い大人がたくさんいます。

 ここで問題になるのは、どうすれば押し付けることができるか? という点です。

 

 その答えの一つが八段落ですね。

 むりやりブラシを持たせて、力づくでゴシゴシさせる。

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 おおよそこんな感じです。ブラシでも便所でもないけど。

 

 ……まあ、ムダな行為ですよね。

 ブラシを握った手を動かすムリヤリ動かされる

 後ろから押して雑巾がけさせるムリヤリ走らされる

 どちらにしても相手に掃除をやらせてはいますが、自分も同じくらい動いているのでぜんぜんラクできていません。自分一人でやった方が早いくらいです。

相手に便所掃除をさせたいのに、事実上、自分が便所掃除をするはめに陥ってしまう

 とは、こういうことですね。

 

 ……五段落までと話が飛んだように思えますか?

 それとも、なんの例示をしているのか察しがついているでしょうか。

 今はどちらでも構いません。さらに読み進めましょう。

 

 

  • 第十・十一段落(相手~ある。)

 八段落で提示された方法は、まったくのムダ行為でした。

 が、世の中には、誰かが便所掃除をさせられる一方で他の誰かはラクをしているということがままあります。

 なにが違うのでしょうか?

 

 十段落を見ると、「相手が、ある程度自由」「ある意味『X』」であれば、権力が「相手に便所掃除をさせることができる」としています。

 八・九段落での例では、相手の自由を奪ったうえで掃除をさせていましたから、逆ということになりますね。

 Xは後で考えるとして、先を見てみましょう。

 

 十一段落では、ここまでにない概念が出てきます。

 脅迫です。

 それも、おやつを人質にした脅迫

 

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 なんて卑劣な行動だ!

 

 このやつ質が恐ろしいのは、脅迫する側(おやつ提供者)は何もしなくてよい(せいぜい監視で十分)ことにあります。

 八・九段落のムダ行為と違って、自分がラクをできている

 これを文章中では、「行為の産出」と表現しています。

 

 また、脅迫される側(おやつ受給者)は、あくまで脅されているだけなので、「ある程度自由」です。自由であるということは、別のことをする余地がある。

 卑劣なやつ質に従わされることもできるし、無視することも、反論することも、逃げることもできます。受動でありながら、能動的にもなれます。

 まとめると、

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権力の掃除と暴力の掃除


 こんな感じですね。

 

 

  • 第十二~十四段落(この例~ある。)

 十二・十三段落は単純です。

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 「掃除しないとおやつあげないぞ」と

 「掃除しないとブチこむぞ」は同じ「権力の行使」だという話ですね。

 いやどんなテロリストだよ。

 

 十四段落も、銃で脅されようが暴力の行使ではないという確認です。

 たいていの人間は銃を出されたら従うとは思いますが、べつに逃げたり素手で戦いを挑んだりという選択肢が消えたわけではありません。選択肢がある以上、それは暴力行使ではないわけです。

 

 

  • 第十五段落(こう考~)

 十五段落は、ここまでの記述を踏まえて「暴力には大きな限界がある」とまとめています。

 行為を引き出すことができない=行為の産出ができない=行使する側がラクできない

 というここまでの展開を踏まえれば、納得できるところでしょう。

 

 気になるところというと「服従」の定義でしょうか。

 どうやらこの文書の中では、「服従」と暴力に負けること=「屈服」は別物であるようです。

 が、設問含め本問ではここ以外で「服従」の語は出てこないので、忘れてしまいましょう。

 

 

  • 第十六段落(フーコ~)

 わずか四行ですが、話がさらに進んでいます。

 いわば権力の弱点のようなものだと思ってもらえればいいでしょうか。

 

 暴力は相手の自由を奪うことで強引に行動をさせるものである一方、

 権力は相手に選択の自由がありました。

 

 選択肢が複数あるということは、「服従」以外の行動をとられることがありうるということですね。

 また、極度に弱った人間は、掃除すらできなくなってしまうこともあります。

 選択することそのものを心が拒絶してしまうかもしれません。

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元気がなければ下僕にもなれない

 逆算的に、抵抗している人間がいるのは、従う側に元気がある証拠だ……というのがフーコーの主張なんですね。 

 

 従う側に元気があれば、(抵抗されるかもしれないが)行為の産出が可能。

 元気がなければ、抵抗されないが、行為の産出もできない。

 行為の産出=自分はラクをして相手に仕事をさせる……なので、元気がない人を従わせても意味がありません。ラクできませんからね。

 

 

  • 十七~十八段落(権力と~Y)

 十七段落を読むにあたって、思い出してほしいことがあります。

 英語の話? 古文の話?

 いいえ違います。

 原始人です。

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まさかの再登場

 考えてみてください。

 原始人は、文明の外で生活しています。

 なので、重火器の類を知っているハズがありません。

 銃を知らない人に銃口を向けて、「おい、掃除しろよ」と脅迫したら(言語の壁はさておき)、意味があるでしょうか?

 銃の恐ろしさを知らないのですから、従いませんよね?

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逃げろ原始人

 それでも原始人を服従させたければ、銃の恐ろしさを ”わからせる” しかありません。

 "理解" をうながすためには、「暴力を限定的に用いる」必要があります。

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生まれて初めてモザイクを見た人たちの図

 とても暴力的で残酷ですが、こうすることで周囲の原始人たちに服従を促すことができてしまいます。

 しかもほんの二百年くらい前まで、奴隷と植民地の制度によって人間が実際にしてきたこととも言えます。残念ながら。

 

 

 そんでもって、この暴力の程度について論じているのが十八段落です。

 特に、射撃されるなどの過剰な暴力を受けた人は、もう何もできなくなってしまいます。

 

 十六段落をなぞれば、過剰な暴力を受けることで、元気がない人のグループに分類が変わってしまうとも言えるでしょう。こうなると、権力を使う側にとっても従わせる意味がなくなります。

 

 なので、権力を使う側が使われる側全員を攻撃するのは不合理です。というより、攻撃は必要最小限に留めなければいけません。元気な人が減れば減るほど、仕事を押しつけられる人が減ってしまいますからね。

 

 従わせることによる価値を残すため、権力を使う側の都合で、暴力の使用は「限定的」に留めなければならないのです。*1

 

 

 ……重い話が出てきたところで、いったん休憩を挟んでください。

 次の段落からさらに話題が移ります。

 

 

  • 十九~二十二段落(では~ある。)

 ここまでやや能動側に視点が偏っていましたが、十九段落では、少し話が戻ります。

 権力を使われる側の謎に改めて触れています。

 先ほどの図を思い出しましょう。これです。

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 暴力を振るわれた側には選択の自由がなく、一方的に掃除をさせられる。

 対して権力を使われた側はには選択の自由があり、逃げる反論するという行動も選べるが、たいていは服従させられることを選ぶ(あるいは、選ばされる)

 権力を使われた側には、受動性と能動性の両方が備わっていることになります。

 

 二十段落では、権力を使われた側に含まれる能動性と、暴力を振るう側能動性が同質であるかを検証していますね。

 そして二十一段落目であっさり切り捨てています。

 なぜなら、暴力を振るう側は暴力を振るいたくて暴力を振るっている(不自由な日本語)のに対し、権力を使われた側はイヤイヤながら選んでいるからです。

 

 選びたくて選んでいるんじゃない。

 逃げられるなら逃げたいし、勝てるなら抵抗したい。

 けど無理そうだから、しょうがなく服従することを選ぶんですよね。

 

 これらを総合して、二十二段落で、「権力行使における行為者」つまり「権力を使われて掃除をする人」は「『する』と『される』の対立では説明することはできない」と言い切ります。

 盛り上がってまいりました。

 

 

  • 二十三段落~二十五段落(フーコ~である。)

 このへんから論の "サビ" です。アゲてきましょう。

 

 二十三と二十四はまとめてチェックします。

 本文で暴いてきた、(フーコー的な)権力を使う側使われる側の関係は、やはり一般的には不自然です。 なぜなら、「すべては能動と受動の対立で説明できると信じられているから」。

 きっと先行した哲学者たちにも、フーコーの主張は必ずしも理解されなかったのでしょう。

 あるときはうまく理解されず、またあるときは小難しい議論の対象となった

  のも、「能動と受動の対立」という常識から外れていたゆえに発生したものと考えられます。

 それこそ暴力などはする側される側がハッキリ分断されているだけに、いっそう受け入れられなかったのだろうとも見えますね。

 

 からの、二十五段落。

 権力関係は、「能動性中動性の対立によって定義するのが正しい」と新たな立場・関係を投げかけます。

 タイトル回収しつつ、ある種神話じみた受動能動の対立構造神話を論破しているわけです。いやあ、 "サビ" ですよね。

 (このブログで緑字使ったのネタバレだったって? その方がわかりやすいかと思って……。)

 

 ちなみに「行為の座」とはなんでしょうか?

 身もフタもないことを言えば、「設問には関係ないからスルーしていい」です。

 ……が、気になる人はまた脚注にぶん投げておくので読んでみてください。長いよ。*2

 

 

  • 第二十六~二十七段落(権力~のだ。)

  プロセスという言葉がぽっと出てきましたね。これは中動態などと違って重要語です。

 知らなかった人は必ず覚えておきましょう。Processで「経過・過程」です。

 

 行為……特に、英語で他動詞で表されるようなものは、その前と後で何かが変わります。*3

 buy だったらお小遣いが減っておやつが増えてたり、crush だったら物の状態が悪化したりします。

 でもって、「商品を選んで代金を払ってブツを受け取る」がbuyのプロセス、「技名を叫んでパンチを繰り出し、バイキンマンの乗り物を機能不全に陥らせる」が crush のプロセス……というように言い表せます。

 

 掃除する clean にも、こうしたプロセスはありますよね。

 ただし、権力を行使する者=武器で脅す者は、そのプロセス自体には一切関わっていません。「プロセスの外」にいます。

 一方権力を行使される者=武器で脅される者=イヤイヤ選んだ者は、このプロセスだけに関わっています。clean しようと思ったわけでもない。トイレがピカピカになろうがなるまいが、本当はどうでもいい。こういう態度って、自ら他動詞的行為をとった場合にはないことです。

 

 これら一連の立ち位置を、中動の概念なしに語ろうとすると、二十四段落で言われたように小難しい議論を呼ぶことになったり、権力を行使される者の立場が理解されなくなったりするんですね。

 めっっちゃめちゃ便利~~~~。

 

 

 

 まあ使いどころないけどサ(笑)

 

 

 

 でもこうして、理論で常識を破壊する様を見られるのが現代文の面白いところですよね!

 ……これは本当!!

 

 

  • 第二十八(最終)段落

  出典の書籍には、この後にもまだ続きがあるんでしょう。二十八段落の内容も、中動の概念が議論空間になかったためにフーコーが大変だった、というだけに終わっています。

 

 余裕があれば、「言語=思想的条件があった」のくだりだけは、頭の片隅に入れておくと別の問題を解く際に役立つかもしれません。

 人間がなにかを考えるときには、必ず言語を用いています。本能や反射でブレることもありますが、絶対に母国語をベースにして思考を組み立てています。

 なので、中動態が存在する言語で本問を解釈するのは、きっと簡単でしょう。フーコー(フランス人)が用いた言葉も違ったので、苦労したのだとうかがえます。

 詳しくは、ブログが続けば別の問題で解説することになるでしょう……。

 

 

  • 余談

 本問を踏まえて絶対に押さえておきたいことは、一般的には「すべては能動と受動の対立で説明できると信じられている」という点ですね。

 そりゃあ本文では否定されましたし、法哲学的には筋の通った説ということになりますが、逆に言えば法哲学以外の分野で本論の考えが浸透することはあまりに考えにくいです。

 

 世の中のさまざまな物事は、能動と受動の対立で構成されています。加害者と被害者、原告と被告、発信者と受信者……。制作者と鑑賞者というのもそうでしょうか(もしかして、世間的に批評家が後ろ指さされがちなのは、鑑賞者という受動的立場から抜け出るなってことなのかな?)

 本論の考えはエキサイティングですが、あくまで新しいモノの見方です。特に受験勉強をしている間は、イマの社会に浸透している解釈を基準とした方がいいです。その一つが、「すべては能動と受動の対立で説明できると信じられている」であるとも言えます。

 

  それと、フーコーのことも押さえておいて損はありません。倫理の教科書にも載っている有名な哲学者ですし、現代文でも今回のように時たま出てきます。

 近代的思考を批判する彼の思想は、今の日本にはけっこうぶっ刺さるような気がします。マスク警察とか、県外ナンバー狩りとか、ああいうのってフーコーに言わせれば抑圧の内面化だって言うんじゃないかと思うんですよね。そのへんを反映した文章が今後出題されても、おかしくないんじゃないかなあ。

 

 設問は次回見ます。

 最後までやりきって、しっかりと力をつけましょう。

 もちろん、一度に続ける必要はありません。少し糖分を摂るなどしてから、勉強してください。

 

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*1:こういった話になると、「一番つらいのは従わされる側だ!」といった人道的な気持ちが湧き上がってくるかもしれません。しかしそういった意見は飲み込んでおく必要があります。本文中にそういった倫理的記述はないからです。変に自分の気持ちを割り込ませると、設問の表現に惑わされますよ。血も涙もない話ですが……。

*2:国語辞書風に答えるなら、「行為する立場」となるでしょう。ただ、それだとちょっとモヤりますよね。

この部分を理解するには、もともと出典が言語を元にした哲学書であり、能動・受動・中動も文法的用語であることを思い出す必要があります。同時に、「態」は動詞に関わるルールであり、かつ行為は動詞で表すことも確認してください。

本文にならって、「AがBに暴力を振るう」という言葉を例にして考えてみましょう。このとき、暴力という行為をはたらいているのはAですね。一方でBは、暴力という行動の結果を一方的に受けているだけであり、行動の経過の中で作用していません。ただ、暴力がもたらした結果をおっかぶっているだけです。これらを言い換えると、「Aは暴力というプロセスを発生させる要因になるとともにプロセスを進行させており、Bはプロセスの終着点にいるだけ」となります。

一方で、「AがBに便所掃除をさせる」だとどうでしょうか? 掃除という行動を発生させた根本要因はAにありますが、掃除はBがしています。そして掃除の結果がもたらすのは、ピカピカのトイレですね。Aはプロセスの要因ではあるけどもプロセスの内にはおらず、Bはプロセスの内にいるけれども結果をただおっかぶっているわけではありません。

これらを比較すると、暴力を振るう者は完全なる行為者です。行為者の立場=座にいますね。

一方便所掃除の方は、Aが行為の要因でありながらBが行為の産出者です。はたしてどちらが行為の座にいるのでしょうか? 両方とも言えますが、見方を変えると、Aは被行為の座にもいなければ、プロセスの結果にもいません。とすると、全身は入れないかもしれませんが行為の座にしか居場所がないですね。一方でBが行為と被行為、両方の性質を持っていることは、ここまで読んだ通りです。

以上のように、行為の座に着目すると、能動・受動という言葉を使うことなく、名詞の立場を表現することができます。

*3:他動詞でないものはなんだったか覚えていますか? 自動詞ですね。know とか swim とか、be動詞等々が該当します。know や swim のプロセスが済んでも、変化は起きないか、自己だけに起こるかです。他者に対しては言わずもがなですね。もちろん、be動詞も。